昭和42年12月22日 夜の御理解
ただ信心を続けておると、優雅な信心をしておる人がたくさんあると思う。ただもう十年も二十年も信心を続けておる。して、信心の有難い事も分かり、お話が有難い事も分かり、そして有難くなったり、またはたまには有難くなくなったりするような信心がたくさんあると思う。それはちょうどお神酒を頂くようなもの、お酒を頂くようなもので、やっぱ信心をさせて頂いておれば、信心が続けられておればお話を頂いて、悪い話じゃない、やっぱり有難い、有難い話を頂けばやっぱり有難い。またおかげを受ける、ついおかげを受ける事も有難い。けれども、それはちょうどそのお酒を飲むようなもので、飲むほどに酔うほどに飲んでいけば酔いは必ずするのだけれども、必ず飲んだだけは醒めるのである。そういう風なのが私はたくさんありはしないか。酒の味を覚えた、おいしい、もう本当に、(こうこつきょうというのか?)、酒を飲む、その酔いしれて、この、気分がよくなる。暑いも寒いもないごとなる。苦労があっても、その酒に酔うておるという時は何もかにも忘れて、それに飛び込んでいけれる、確かにそういうものがある。けれどもまた酔いが醒めればまたもとの苦しみにもどらなければならない。そういうだから信心では、何十年続いても本当に神様に喜んで頂く信心とは言えないと思う。
そこで私は、本当に信心の根本というかね、信心させて頂く者は、信心の目指しというのはここだこれだというものを頂いて進んでいかなければならない。「信心は日々の改まりが第一」、「信心は本心の玉を磨くものぞや」、本気で磨かせてもらおう、本気で改まらたまらさせて頂こうという事になって改まらさせて頂けれる、少しは磨かせて頂いておる事が自分でも分かる。そこから生まれてくるところの有難い、勿体無い、安心の気持ち、これならば醒める事がない。
例えば、なるほど、野菊の花もきれいだけれども、それが改良に改良を加えられて大輪の花になる。切り替え切り替えして、いうなら渋柿が甘柿に切り替えられる、そこんところができていくとですね、有難いものなんです。ですから本当に自分、現在の自分というものを切り捨てるというところを切り捨てて接ぎ変えていく。そこへ人柄が変わる、人物が変わる。そこから生まれてくるところの、そこから頂けるところのおかげが大切。これならば狂いがない。お互いの信心はどちらだろうか。もう五年十年信心を続けておりますと、なるほど御取次を頂いておかげも頂きます。お話を頂けば有難い。お道の信心もお話を聞けばだんだん分かってくる。有難いけれどもそれがいつの間にかそこを醒めてしまうように、有難いものも何もなくなってくる。そこでまたお参りをして、その、お話を頂く、また有難うなる。酒を飲む、またもとの素面になる。また酒を飲む。そういうような事が私は繰り返されていくような信心が、私は、信心の中毒症を起こしておる。宗教は大変だといったような事を言う人がある。なら、そういう信心を言うのじゃなかろうか。だからもう根本的にです、私はその、改まっていく磨いていくという事に焦点を置いて、そこから生まれてくるところの有難さですね、渋柿が甘柿になれるのである。野原に咲いておる菊が、改良に改良を加えたら大輪の菊の花になる事ができるのである。野に咲いておるいわば(稲バラが?)ああいう大輪のバラにも接ぎかえる事ができるのである。そこのところの切りかえ、接ぎかえ、それにいよいよ肥料を施し、いよいよ手を加えて伸ばしていく、上に伸ばせてもろうて、私はもう本当に過去の自分ではない私に、五年前の私ではない、一年前の私ではない、いわゆる性根が変わってくる。そういう私は信心を目指させてもらい、その信心に本気で打ち込ませてもらう、そういう信心を頂く為にお互い信心をさせてもらうというのでなからなければ、おかげを頂く為に修行しておるといったような信心が長く続いたのでは、中毒症を起こすような事になったらいけん。参らにゃ気色が悪い、信心がある程度は分かってきた、飲むほどに酔うほどにやっぱり有難くなれる事だけは間違いない。けれどもまたいつの頃からかとこう冷めてしまう。また参らにゃならん。もうすでに中毒症である。信心の中毒症から本当の信心の真髄、日々が本当に有難い勿体無い、しかもそれには安心の伴うた、喜びと安心の伴うた生活ができるというような信心を身に付けようという願いをね、お互い立てなければいけないと思うですね。
どうぞ。